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今や100円ショップでも手に入る電卓。日常の中にすっかり溶け込み、家中を探せば2、3台は見つかるのではないでしょうか。そんな電卓も発明された当時は、最先端の高額機器でした。ここでは電卓の歴史、発明から進化の流れなどご紹介していきます。

電卓はいつ発明されたの?

イギリス・アメリカに次いで日本が続く

電卓の正式名称は、電子(式)卓上計算機です。それまでの計算機は、歯車などの機械的な要素を組み合わせ演算するもので、大型で複雑な様相をしていました。世界初の電卓の登場は、1963年。イギリスからAnitaという製品が世に出たのが始まりです。Anitaは、歯車を真空管に置き換える技術を搭載しており、卓上とはいっても重さは16kgもありました。しかし、機械式の計算機とは異なり、計算時の大きな音もなく、計算速度には目を見張るものがありました。やや遅れて米国からは、ディスプレイにCRTを使ったFriden130という機種が発売されます。

初期の電卓の価格はクルマ1台分

イギリス・アメリカに続き、各国でも電卓の開発が加速していきます。1960年当時は、重さが15~20kg、費電力も50Wから100Wを超える大型の電気機器でした。価格も、自動車1台が購入できる値段でした。しかし、機械式計算機と比較して処理速度が速く、外観もスマートなため、人気が高まっていきます。また、開発が進むにつれて価格は急激に下落。1970年代には、個人でも手に入るものとなっていきました。初期の電卓は真空管を利用していましたが、後発の日本での主流はトランジスタを搭載。個人使用にも向く電卓が、次々と製造されていきました。

電卓は誰が発明したの?

電卓の誕生は産業革命の地から

世界初の電卓は1963年イギリスのBell Punch and Sumlock-Comptometer 社が開発したAnita(”A New Inspiration To Arithmetic”の略)です。翌年、米国で発表されたFriden EC-130は、真空管を使わない初めての電卓といわれています。電卓の発明者という意味で、個人名は伝わっていません。実は世界に先駆け、1959年に日本のカシオがリレー式計算機の小型化に成功しています。ただ、1台の大きさが机サイズだったため、卓上電算機の発明とまではいえないのかもしれません。そのため、情報によってカシオの創始者である、樫尾忠雄氏を発明者とする場合もあります。

すべての計算機の大元となる発明者とは?

世界で最古の機械式計算機はフランスのブレーズ・パスカルが、1643年に作った計算機パスカリーヌといわれています。「パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理」等で知られるこの人物は、哲学者、自然学者、数学者など数々の肩書を持つフランスが誇る17世紀の天才的偉人です。39歳で早世している早熟の天才が、計算機を考案・設計・作成したのはわずか17歳の時。徴税官であった父親の業務に、役立つようにとの思いから開発に励んだといわれています。それから約300年後、計算機は歯車から電子機器へと進化を遂げることになります。

電卓はいつ日本に伝わったの?

日本での電卓開発競争は1964年に開始

前年の衝撃的なAnitaの発表を受けて、日本のメーカーも一斉に電卓開発に乗り出します。
○日本の電卓開発例

発表年 企業名 名称
1964年3月 シャープ CS-10A 53万5000円
SONY Sobax 50万円
5月 大井電気 Aleph-zero 80万円
キャノン Canola 130 39万5000円

これらの機種は、これらは、Anitaとは違い計算回路にトランジスタやダイオード、パラメトロンなどを使い、より高性能化を目指したものです。しかし、シャープのCS-10Aを例にあげると、トランジスタを530個、2300個ものダイオードを使用し、重量は25kgもありました。価格は個人で手が届くようなものではなく、電卓業界では早急に小型化と低下価格に着手する必要に迫られていました。

電卓を個人の手にもたらしたIC・LSI技術

小型で手軽に扱え、個人でも持つことのできる現在の電卓としたのは、ICやLSIなど集積回路といわれるものを組み込む技術でした。この技術に先んじたのは、シャープ社でした。1966年テンキータイプの電卓を発売後、ICを使用したCS-16Aの開発に成功しました。シャープは価格を引き下げるため、LSI技術の進んだ米国企業と提携。大成功を収めます。これを受けて各社はこぞって、ICやLSIを搭載した小型電卓への開発競争に入っていきます。1970年代後半には、時代はポケット電卓へと、さらなる小型化への道を進んでいきます。

日本で初めて電卓を作ったのは?

実は日本の電子計算機開発は6年も早かった?

純電気式計算機の開発は、すでに1954年にカシオ社で行われていました。一切歯車を使わないという計算機開発への道は、高品質な部品の材料と優れた加工技術によって生み出されました。カシオが試作した電気式計算機は、すべて電気回路で処理するとうい画期的なもの。改良を重ねた結果、1957年には純電気式計算機の商品化に至ります。しかし、1台の大きさが机サイズであったため、「電子卓上計算機」という名称は与えられなかったようです。電話交換機に使われていたリレー(継電器)技術を用いていたため、リレー式計算機と呼ばれていました。

現代の電卓の基礎となったキー配列

当時の計算機は、今のようなテンキー配列ではありませんでした。すべてのケタごとに数字ボタンを並べた、「フルキ―」が当たり前だったのです。また、計算結果だけではなく、入力した数字をすべて表示する形式のため、表示窓は3つあるのが普通でした。しかし、カシオ社が開発した計算機は、現在の元となるテンキーを装備し、表示窓も最終的な計算結果ひとつのみという当時としては画期的なデザインが実現されていました。リレー式で市場をリードしていたカシオ社は一方で密かに、電子式の研究も進めていたといいます。1964年以降の電卓競争にも遅れることなく参入し、1965年には史上初のメモリー機能を備えた製品を発表しています。

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